当然、現在という時間軸も。
それらすべてを薙ぎいく圧倒的な力。
2011年の石巻の地で1945年の沖縄の惨状を回想するところから物語が始まる。
負の指向の圧倒的エネルギー。
その渦中で人々が無力感と共に翻弄される様。
自然災害と戦争が持つ近似性を対比する。
『美ら海、血の海』を読んだ。
沖縄のある勤皇隊の少年の物語が描かれてる。
少年のコミュニティが爆撃の雨や戦時下体制というシステムによって外からも内からも侵される。
国体として信じていた、信じ込まされていた価値がひっくり返る。
その無力感。
どこまで史実検証され、それが物語に反映されているかはわからない。
小説として昇華してる部分はあるのかもしれない。
戦時下のこの無力感、これだけは史実がどうのという性質ではなく必然。
重くこたえた。
そんな現場に放り込まれたくない。
終戦記念日。
世界各地で続いてる戦闘のうちでひとつの戦闘状態が終わった日。
自然災害に対策はあっても起こるものは止められない。
戦争は人の営みの中で行き着いてしまった手段。かなしいかな選択肢。
ならばその手段を取らないという選択肢も人々にはある。
自然災害と戦争の違い。
日常生活の営みで人は小さな波を作ってる。そこかしこで。
善きにしろ悪しきにしろ数多の波頭は結ばれエネルギーを形成。
ネガティブなうねりも水面下で育つ。
そのさざ波に人々は気づけるのだろうか?
看過した潮流はやがて大きな津波=戦争となって誰彼のコミュニティを無慈悲にも呑み込んでいく。
非日常の世界への契機は日常の波の中。
自分にとってバンドで反戦口承をするのは自然な事。
それは8月15日の一日限りではない。
重々しい仰々しい使命感なんて無いんだなぁ。
それはパンクバンドとして息を吸い込み、息を吐くことだもの。
最後はみつをっぽく締めたが、笑。
R.I.P